北海道生まれ。木に登って柿を取っていると、隣の木で柿を取っているクマが自分の柿を取るな!と怒っているような山の中だったそうです。
2歳の時に東京に引っ越したので、スキーもできません。
練馬区、杉並区、国分寺に暮らす。自由な高校だったのをいいことに、授業はほとんど出ずにプラスバンドに夢中。当時の仲間はよく杉並の家に泊まり込んで、朝ごはんを母に作ってもらってから登校。
大学に入ったら大学はストライキで授業なし。火炎瓶の飛ぶキャンパス。
することないので、物理学科の友達と力学、量子力学、線形代数の本などを読んでいたら、物理が面白くなってしまいました。このときに皆で読んだ「応用数学者のための代数学」は「目からうろこの線形代数」に結構影響しています。
大学院修了後2年間出身大学で助手。当時物理学科の助手は一人で、力学、量子力学、統計力学、物理数学の演習を一人でやることになりました。
このとき冗談で、熱力学と相対論がまだ教えてない。残念だなあと言ったらしいのです。広島大学にいるときに、近所の大学の先生がやってきて、熱力の非常勤を頼まれました。忙しくてとても無理ですと固辞したら、「中村先生は、熱力を教えてないのが残念だといいました。私はその教室に学生としていました!」と言われ、2年間やることになりました。口は災いの基です。
そして、なぜか相対論の本も書くことになりました。
辞職して、イタリアの研究所へ。イタリア政府からの給料は月4万円くらいで、超貧乏生活。でも、不思議な事にいつも誰かが助けてくれて楽しく暮らしました。週末は研究所の若い人たちと楽しく遊んでいました。
一年で帰るつもりだったのですが、不思議な事に帰れなくなり、イタリアにさらに一年、ドイツ、スイスと10年間ヨーロッパを放浪することになりました。
イタリアに行ったのは、素晴らしい仕事をしていたP先生に憧れて。
P先生たちは、計算機を使って物理を研究する仕事を始めていました。日本では理論物理は紙と鉛筆でやるもの、計算機などは不純という雰囲気がまだあった時代でした。あるときP先生にそういったら、「えっ!君は物理で何かを知りたいから研究してるんだろう?そのために使える道具はなんでも僕は使うけど」とおっしゃり、目からウロコが落ちました。
ドイツにいるときにルーマニア人の同僚にパンフルートのCDをもらい、その地上のものとは思えない美しい音色と、深い表現力にショックを受けました。スイスにいるときに、パンフルートの先生に出会いその日に弟子入りしました。そのあとドイツに移った後も、毎週ハイデルベルクからスイスのチューリッヒにレッスンに行き、夜行で帰るという生活をしていました。
日本に帰ってきてから、山形大学、広島大学に勤務。
広島大学時代に、突然ユネスコからウズベキスタンに教育支援に行けと言われて2年ほど通いました。なぜぼくに声がかかったのか分かりませんでした。
何年も経ってから、日本物理学会の偉い先生から、「ウズベキスタンから支援要請があったんだけど、誰を送るか困ってしまった。結局、中村君ならどんな混沌の中でも生きて返ってくるだろうと思ってぼくが推薦してしまった」と言われました。ひどいなあ。当時はソ連崩壊直後で大変だったのですよ。学生時代に火炎瓶が飛び交う中を歩いていたのが、こんなところで役にたつとは。
その後、似たようなことが起こります。
「パレスチナの爆撃の中の学校で、子どもたちに教えるべきは憎しみではなく、音楽や美術を愛する心だろうと信じて頑張っている方がいます。その学校にピアノを贈りたいと思います。爆撃で黒焦げになったオリーブを日本に運び、それからパンフルートを作りました。日本でこのパンフルートを演奏して、ピアノを送る資金を作りたいと思います」
「いいお話ですねえ」←中村
「でも、これを吹く人がいないんです。中村さんが吹いて下さい」
「計画の順番が違ってないですか?!」←中村
結局説得されて日本中を演奏して回りました。座長(?)のHさんの熱意でついに資金がたまりました。
「これを持ってパレスチナへ行きます。オリーブのパンフルートも持っていきます。一緒に来てくれますね」
「えーっ」
というわけで、パレスチナへ行って吹いてきました。
難民キャンプでは訪ねて行っても誰も出てきてくれません。でも、パンフルートを吹くと、子どもたちが出てきて、歌を歌ってくれました。音楽の力はすごいと思いました。
うーん、話がどんどんずれていきます。
まあこういう人間なので、ウラジオストックへ行くことになったといっても、誰も驚いてくれないのです。